ライティングセラピー

ライティングセラピーとは 

 

自分が体験したことを物語のように書き出すことです。

 

感情は、外に出たがっています。

抱えきれない感情は、‘じゅうぶん’という感覚が訪れるまで 

何度でも何度でも表現していくことが大切です。

‘じゅうぶん’ は いつ訪れるのかは誰にも(本人にも)わかりません。

諦めずに少しづつでもケア(表現)を続けていくことで だんだんと抱えられるようになっていきます。

そして 必ず‘じゅうぶん’ が訪れる時がくるのです。

 

書き出すことで、混乱は少しづつ整理され、現実を少しづつ受け入れられるようになっていきます。

幼少期からの「人生物語」のようなものでも良いですし、

消化できない特定に出来事に関する「自分にとっての体験」を書き出すことも良いでしょう。

 

もちろん独りで行っても効果はありますが

それを見守る仲間やセラピストの存在があれば、さらに癒し効果は高まります。

理解者(わかってくれている人)の存在は生きる上での大きな支えとなるのです。 

 

ここではクライエントさんから掲載許可を頂いた体験物語を

少しづつご紹介していきます。

 

*長文が多いです。

*性暴力やリストカット、OD場面などの描写などがありますので

 注意書きをお読みください。

 

 


 

 

「私の心には」 ***性暴力・リストカットの話が出てきます***

 

 

私の心には、真っ暗でおどろおどろしい嵌め殺しの窓がありました。そういうイメージでした。

出入り口なんてないはずなのに、なにかあると逃げ込めるような不思議なところでした。

考えまいとしても、常に心に重くのしかかっていて私が自分を否定する格好の材料でした。

この嵌め殺しの窓を開けるのに、10年かかりました。

今でも決して居心地はよくないけど、嵌め殺しではなくなり、明るい光が差し込むようになって、どんな部屋だったのか見られるようになりました。

暗闇に逃げ込むことができなくなって、私は自分を取り戻しました。

思えば、自分を愛せない私が結婚なんかしちゃいけなかった。

「そうせざるを得なかった」のは、結局言い訳で、私はあの時から何も選んでいなかった。

 

ブログで「記事」として書いたのは2006年に入ってからです。何日もかかりました。

書き上げて、ブログにアップできたのは2月になってからでした。しかも「私」とはかけなかった。それはあくまでも「私」ではない「彼女」の話でした。自分の出来事だと認められなかったし、認めたくなかったからです。

すぐに削除してしまい、データとして残っていません。みんなのコメント部分だけをプリントしたので、少しだけ記事が残っていました。

でも、大丈夫です。心の窓は開いていて、あのとてつもなくドロドロで黒く大きな岩みたいなモノは手のひらにのるくらいの塊になってます。ちょっと手にとってみるだけです。多分、もう激しくは痛くないと思いますから。

だから、「私」が書きます。

 

私が思い切って吐き出してみようと思ったのは、ブログと、そこで知り合った人たちがいたから。ブログを始めていなかったら、またソウルメイトと思える特別な人たちとの出会いがなかったら、私はきっと暗闇で独りでひざを抱えてうずくまったままだったと思います。希望も夢もなく、ただ「生きてる」だけの死人だったと思います。そう、私はあの時たしかにカッターで手首を切ったのだから。

 

私は誰でも名前を知っている大きな会社で働いていました。楽しかったです。みんながちやほやしてくれました。

学生時代からつきあっていた彼に別れを告げられ傷心していましたが、毎日新しい職場でひたすら忙しく働くうち仕事もどんどん楽しくなり、やっと踏ん切りもついて、バリバリのキャリアウーマンを目指し始めていました。職場の先輩も同僚も若くて鼻持ちならない小娘だった私を見守ってくれていました。私は徐々に自信をつけ、先輩が結婚退職するときには「事業部初の女性管理職はあなたよ」と言われ、すっかり真に受けるくらいでした。

別れた彼が半年ぶりくらいに連絡をとってきました。そのころ私には同じ職場に気になる先輩がいました。元カレは何度も別れようといっては戻ってくる人だったので、今度こそは別れようと思っていました。ですが、自宅に押しかけてきて、土下座までして謝る彼に同情してしまい、「これで最後だからね」とまたヨリを戻してしまったのです。

会社では昇進試験にもパスし、新しいステージに立った私はさらに自信を深めていきました。学生時代からつきあってた自分勝手すぎる彼とは本気で見切りをつけて、別れようと考えていました。お金もいっぱい貸していました。会えば必ずカラダだけは求められていました。もうなんのときめきもない相手でした。

 

入社4年目、大きなプロジェクトに参加させてもらうことになった私は、東京にも出張するようになっていました。

その出張先で、私とプロジェクトチームの同僚(当時34歳)は取引先の接待を終え、ほろ酔いでホテルに戻りました。

書類を渡す必要があり、うかつにも同僚の部屋に行ったところ、私は性的暴行をうけました。私の不注意だと思いました。私に隙があったのだと思いました。私が悪いんだと思いました。私の考えが甘すぎたのだと、幼稚すぎたと、私自身の責任だと思いました。

相手は酔っていて記憶があやふやだったということです。

私もそれ以上に酔っていたらよかったのに。記憶がないほうが幸せでした。

私は男性経験があまりにもなかったので(学生時代の彼しか知りませんでした)、過剰に反応してしまったのでしょうか?

 

自分の意思でない行為は著しく人格を傷つけます。自分が「人間」として扱われていないのだからあたりまえです。

 

私は自分の身に何がおこったのか、よくわかりませんでした。わかりたくもなかった。

恐怖、屈辱、羞恥、怒り、あきらめ・・・何がなんだかわかりませんでした。

夢だったのかもしれない。そうであって欲しかったです。

ホテルの狭いユニットバスで、シャワーを浴びながら体をこすり続け、自分の体に自分が触れるだけで吐き続けました。バスタブに自分が吐いたものが流れずに排水口に溜まっていたのをなぜか思い出します。

翌日、私は何も、誰も見ないまま、なんとか最低限の用件だけをすまし、体調不良を理由に一足先に帰りました。帰りの新幹線の中でも吐きました。何も吐くものがないのに、黄色くて苦い胃液がでて、それすらでなくなっても吐き気がおさまりません。不審に思われたんでしょう、車掌さんに声をかけられましたが、返事はできてもトイレから出られませんでした。

逃げるように自宅に帰った私は自分のベッドで、枕が冷たいと感じるまで自分が泣いてることにも気がつきませんでした。気がついてもどうすることもできず、またどうもするつもりもなかった。自分がとてつもなく不潔なものに思えました。2006年の時点、つまり記事にしたときでさえ、私は不潔でどうしようもない人間で幸せになんてなる資格も価値もないと思っていました。

どんなに洗っても洗っても綺麗にはならない。

帰宅後、ひたすら吐き気を催す娘を心配した母親が胃腸科の病院に付き添って行きました。

血を吐いていた私は産まれて初めて胃カメラを飲みました。

私はたった2、3日の間に胃に潰瘍ができていたのです。

私は自宅で両親に「仕事のストレス」といい、極力普段どおりに振舞いました。

誰にも気づかれてはいけないという一心でした。

 

2週間会社を休みました。そのうち親も怪しみだします。

 

(記事を書いた当時は加害男性のことを「動物」と書いていましたが、今はストレートに「加害男性」としますね。)

 

加害男性は私の体内に痕跡を残してなかったはずですが、生理がきた時には本当にほっとして、嬉し涙がでました。

 

私は、その翌日、両親の的外れな励ましを受けながら、会社に送り出されました。

私が会社を休んでいる間、私は誰が見てもわかるほど痩せて、「何かあった」とわかる状態でした。

誰かに気づかれるのではないかと心配でしかたがなかった。

ビクビクおどおどしていました。

挙動不審でした。

同僚や、会社の知り合いはみな心配してくれました。

出社した日、加害男性は出張中でした。

顔をあわせずにすんで、心からほっとしました。

でも、翌日とうとう顔をあわせてしまいました。

私は顔をみて、記憶と共に激しい吐き気に襲われてトイレに駆け込みました。

そしてその日は逃げるように早退しました。

 

さらにその翌日、駐車場で加害男性に待ち伏せされました。

「話したいことがある。あの夜のことで・・・」

 

私は全身の血が凍った気がしました。

「もう私に話しかけてこないでください」

私はそれだけ言うとそのまま自宅に逃げ帰りました。

 

あのことが起こる前には別れようと思っていた彼氏に思いがけず救われました。多忙を理由に逢わないようにしていたけど、電話では、さも仕事が順調で、プロジェクトも着々と成功に向かっており、自分の力が発揮されていて、やりがいがあって・・・と妄想を延々と語っていました。話している間だけは、以前の何も起こっていない自分でいられたから。

私は夜も寝られなくなり、後悔と自分を責めることしかできなくなっていました。

辛かったです。

これはみんな夢で、早く目を覚まさなきゃ、と思うことが多くなりました。

何も知らない彼氏に話している妄想が本当のこと、現実なのだと。

ある夜、私はとうとうカッターナイフを左手の手首に当てました。

すっと左から右に引くと、赤いボールペンで線を引いたように少しだけ切れました。

その瞬間、私は我に返りました。

そして、思ったんです。

なんでこんなことになったんだろう・・・。信用しすぎたから?自分に隙があったから?

あんなに頑張ってきてきたプロジェクトなのに、成功の手柄はすべて加害男性のものです。会社にももう居場所がない・・・

「なんで私がこんな目にあわなきゃいけないの?」

「怒り」モードにスイッチが入った瞬間でした。

 

私は、彼氏と別れてつきあいたいと思っていた職場の先輩に相談しました。

先輩は薄々気がついていたそうです。それから、先輩は女性の弁護士さんを探してくれて、紹介してくれました。

弁護士先生は、私の話を聞いて、慰謝料を請求することを勧めました。

私は警察に訴えることも視野に入っていましたが、弁護士先生の言葉で断念しました。

「女性にはかなりしんどいことになる。悔しいけど、裁判になったら、もっと傷つくし、親にも、職場にも、すべて知られてしまう。それでもやり続ける覚悟がありますか?」と。

弁護士先生は、もし訴えた場合におこりうることを教えてくれました。

「警察に訴えたら相手も必死にごまかし、嘘をついて逃れようとする。警察は、状況を事細かに聞き、あなたはそれについて隠さず話さないといけない。病院には行った?婦人科とか。・・そう、いかなかったの。じゃあ、客観的証拠がないわね。職場にも調べに行くだろうし、場合によっては実況見分で再現させられるかもしれない。裁判でも同じことの繰り返し。耐えられますか?」と。

私は想像しただけで吐き気がしたし、心底恐ろしかった。断念したのは正解だったと今も思います。

 

私は、弁護士先生が算出した慰謝料を請求してもらいました。

私はお金がほしかったんじゃありません。

私からの唯一のよう要求は「謝罪」でした。

 

弁護士先生は加害男性に内容証明郵便を送り、弁護士業務を遂行しました。

経過報告も怠りありませんでした。

 

私は会社にもなんとか出社できるようになり、少しずつでももとの生活に戻ろうと必死でした。ただ、かつての大きなプロジェクトに参加させてもらえるようなチャンスはもう回ってこないかもしれない・・。

職場も私も以前とは何かが違っていましたから。

私は思いました。「私をこんな目にあわせておいて、あの加害男性はのうのうとしている・・・」

・・・絶対許せないと。

私はとうとう職場の上司にも訴えました。弁護士を頼んでいるということも。

上司はかわいがっていた部下(加害男性)の所業にただ驚き、呆れ、怒っていました(ように見えました)。

もし私が希望するなら、部署の移動も認めるとさえ言ってくれました。

でも、私は自分より、加害男性にいなくなってほしかった。上司にそう伝え、善処すると言われていたのですが・・・。

 

慰謝料が支払われた、と連絡があり、何度も通った弁護士事務所に出向きました。

慰謝料の20%が弁護士先生の報酬。私はその場でうけとった封筒から支払いました。

結局最後まで加害男性からの謝罪は得られませんでした。

やりきれない気持ちのまま、汚らわしいお金を持ってバスに乗りました。

そのまま捨ててくればよかったのに。事実そのお金は何につかったのか、全くわからない。彼氏と使ってしまったようです。

 

あてにしていた上司はその後も変わらず加害男性に仕事を与え、さらに重要で大きなプロジェクトをメンバーにし、アメリカに出張までさせて、キャリアアップさせていました。

弁護士の仕事が終了したことを知り、一件落着だと思ったみたいです。

 

もしあの時、加害男性が心から謝罪してくれていたら・・・

もし加害男性が私のことが好きで、その結果ああいう行動にでたのだとしたら。

 

私はどうしただろう?

・・・許せたのだろうか?・・・わからない。

少なくとも、ほんのひとかけらの自尊心だけは残されたかもしれません。

私は弁護士に会って、慰謝料を手にしてもちっとも癒されなかった。それどころか、ますます無力感に襲われて「なんだったんだろう・・・」ととんでもない脱力感を感じました。

表向きは同情しているフリをしている会社にも不信感が高まるばかりでした。

周りにはもう誰もいない。。。

一番初めに相談した好きだった先輩は相談したときすでに同棲している彼女がいました。紹介してもらった弁護士さんにお願いしたと連絡したとき、彼女がでましたから。

 

私は最後の手段とばかりに加害男性の奥さんに訴えるという行動にでました。

弁護士先生が作成した内容証明郵便で送付した事件の詳細が書かれた書類のコピーを送りました。

もちろん加害男性の奥さんから返事があったわけではありません。

その手紙がもとで離婚でもして、加害男性が不幸になればいいと思っていました。

でも、そうはなりませんでした。

 

10年たって、自分が加害男性と同じ年齢になり、今度は「奥さん」となった自分の元にその手紙が送られてくるのではないかとおびえていました。

因果応報。もうそうなったら、夫を殺して自分も死ぬと書いてありました。

 

そう、私は自殺未遂を起こして、弁護士事務所に相談に行ってから、彼氏にやっとうちあけたのです。真っ先に相談した先輩にはもう彼女がいたから。

私は、手ごろな彼氏に逃げたんです。何にも知らない彼氏に。

いつまでも電話だけですむわけありません。

事件後最初に会ったときは言えなかった。なんでそんなにやせたの?なにがあったの?って。カラダを求めてきたけど、生理中だからって断った覚えがあります。

でも次のデートの時、もう生理中とは言えません。

私は彼氏に身をゆだねました。でも、できませんでした。

私は裸のままその場で吐いてしまったからです。

彼は怒らなかった。片付けて、泣いてる私の頭をなでてくれていたと思います。

私はこのとき、やっと打ち明けたんです。

彼氏は加害男性を「殺してやる」と言ってくれました。

なぜか、私はそれで少し救われた気がしました。

そんな時彼氏の子を身ごもりました。私と彼氏は結婚することになりました。

性的暴行を受けたのは夏の初めでした。弁護士に相談していたのが秋で、年明けすぐには結婚式を挙げていました。多分人生で一番早く時間が流れていたときだと思います。

 

だらしない彼氏でしたが(お金にも女にも)、結婚して、子どもが生まれたら変わってくれると思っていました。でも、トラブルがおこるたび思いました。こんなはずじゃなかった。あの事件がなかったら・・・って。この大きな心の傷は、大きすぎて、逃げ込める「穴」になっていました。

過去は変えられないし、旦那さんとなった彼氏も変えられない。

10年結婚生活を送ってきて、私はとうとう自分に問いただしたのです。

「これでいいの?」って。

 

私は記事を書き上げて、やっと自分の嵌め殺しの窓にヒビを入れることに成功しました。

ヒビをいれて、中に溜まってた黒くてもやもやしたものを追い出して、光を入れてみました。

いわゆる「キズモノ」である私と結婚してくださった・・・そんな気持ちがありました。

この事件以外にも自分には負い目と思っていたことがあり、夫とは対等の立場ではありませんでした。負い目といっても、自分が在日3世であること(帰化しており、私は生まれつき日本国籍です)、B型肝炎のウイルスキャリアであること。どちらも私の力ではなんともならないことです。

結婚生活も末期には、旦那さんは私のことを非常識で、それは韓国人だからだ、韓国人というのも嘘で、本当は北朝鮮人ではないのかとまで言いました。

性的暴行を受けたのも、本当は酔っ払った私が自分から誘ったのではないかと。お前ならやりかねない。と。

 

私は感じていました。旦那さんは私を対等の人間として扱ってくれていなかったんです。

私がうつ病になった決定的な一言だったのは、「子どもができたから、しかたなく結婚した。でなければ、誰がお前みたいな女なんかと一緒になるか」だったんだと思います。

 

たった半年で15キロやせて、体重が43キロきったとき、私はやっと自分を逃がすことができたのです。

 

性的暴行を受けたから、在日3世だから、病気持ちだから。だからって、私が私でいちゃいけない理由ではありません。経済的に苦しめられて、人格を否定され続けられても我慢していなければならないわけじゃない。

 

私は性的暴行を受けたことを自分で認めて、受け入れられたからこそ、自分で自分を助けることができたんだと思います。

 

旦那さんの借金、浮気と起こるべくして起きたことだった、人生に必要なことだったんだと思います。ずーっと不幸だったわけではありません。

 

全くの悪人だったわけでもない。優しいときもあった。感謝もしている。だから、別れられなかったんです。一人になるのが怖かったんです。

 

私は調停のとき、わねざきさんのカウンセリングルームに入れてもらいました。

 

私が調停で離婚できたのは支えてくれたわねさんはじめ、ブログの友達の励ましがあったから。

離婚することに至るまでブログで気持ちを吐き出し続けていました。そうしないと自分を保っていられなかったからです。

 

まだ自分を受け入れていない時期に書いた過去の記事を読み返すと、頑張ってた自分を思い出します。

 

もう頑固に意地を張らなくてもいいんだよって、思います。

 

吐き出せてよかった。

 

ブログにかけてよかった。

 

誰かと共有できてよかった。

 

 

私はわねざきさんの声に導かれるまま、心から笑っていた自分を思い出しました。

 

それはまだ自分がB型肝炎のキャリアだと知る前の高校生のときの私でした。

 

戻ることはできないけど、またそんな風に、いや、それ以上に気持ちよく笑える自分にはなれる。

 

私は「新しい自分」になったんだと感じています。